2015年1月2日金曜日

「梅の栄」

昨年のお浚い会をなんとか終えて、次に虫六に出された課題曲は『梅の栄』でございました。なんと!新春にふさわしい1曲でありましょう。
…そんなわけで、今年最初の日記はこの曲のご紹介から。

梅の栄

制作年 明治3年(1870年)
作詞/作曲 三世 杵屋正治郎 

本調子前弾 
〽鶏が啼く (合)花の東に立つ春の、明けて目出度き島臺は(合)
富士と筑波にたとへにし、遠近(おちこち)やまも白妙や、
まだ深からぬ春の日に、残んの雪の(合)解けそめて(合)
空も長閑(のどか)にそよそよと(合)旭も匂ふ梅が風合)
四方(よも)にわたりて軒端(のきば)もる(合)
屠蘇のかをりや梅も咲け(合)(かの)潯陽(じんよう)に伝え聞く(合)
猩々舞(しょうじょうまい)にあらねども、さす手引く手の(舞の合方)盃に
二上リ
〽ほのめく色のとも移り、薄紅梅の酔心(よいごころ)
開く扇の末廣や、(合)(こえ)もゆたかに四海浪、
しづけき御代に鶯の(合)
〽いつか来啼きて花の笑み、にこ羽子のこの数々も手毬の合方
ひとふた三重の初霞、曳くや柳の糸竹も、長き齢は鶴亀や、
変わらぬ色は松竹に、千代の聲そふ喜三が春(琴の手事の合方)
梅の栄(さかえ)と世に廣く、三つの緒琴(おごと)に祝すひとふし

この曲は、三世杵屋正治郎(文政9年(1826) - 明治28年(1895))が作詞も作曲も手がけています。岡安喜三郎のお正月のお浚いのために作られたと伝わっているそうですが、新春の長閑な風情を背景に寒中に花咲く梅やお屠蘇気分を表現しつつ、実は、自身と岡安喜三梅との結婚の悦びを織り込んだ内祝儀の曲なのだそうです。44才の時の作品というのは晩婚だったのか…?

速水御舟 紅梅図 1925(大正14)年 
歌詞を読むと、1曲の中に、新春を表す言葉(「立つ春明けて」「屠蘇」「羽子のこ」「初霞」…)に絡んで、喜三梅との婚礼を暗示する言葉(「梅(喜三梅)」「島台(結納のときに並ぶ蓬莱山や鶴亀をあしらった造り物)」「盃(三々九度の)」…)が見え隠れしているのがユニークで、それで全体がおめでたい言葉で満たされており、なんだか早春に咲く愛らしい梅の花と、若い妻女がオーバーラップして香りまでしてくるようで、作者の高揚感が伝わってきます。(すみません、時代は違いますが御舟先生の「紅梅図」が新妻のほんのり頬を染めたような色っぽさにイメージがぴったりだったので、参考引用…ということで)

三世杵屋正治郎といえば、一昨年にさせていただいた「岸の柳」もたしか友達の結婚祝いに作った曲と言われていたような…、こういうの流行っていたんでしょうか?

前弾きは神楽の合方というらしいのですが、本調子で小刻みな手くさりではじまり…、三線譜では分からないけれど、お囃子がついた演奏もあるらしい。通りをやってくる門付けの神楽舞…しょっぱなからお正月風情を演出する趣向なのだね。この曲の前弾きの替手は文化譜の「替手秘曲集」に収められる特に面白いもので、鶯の飛啼きという手を用いているとか…(虫六は当然のことながら秘曲集なんてものは見た事もありませんが…)
ひえぇ〜、技を使いましたな三代目!! そんな演奏聞いてみたいッス。

『梅の栄』は演奏会での発表を目的にした “素唄” として作られたもので、唄にもお三味線にも聞かせどころがあります。三味線では、「猩々舞の合方」、娘道成寺でお馴染みの「手毬の合方」、そしていちばんの難関は「琴の手事の合方」という長い合方!
唄にあわせるところは、のんびりと豊かな酔い心地で気持ち良く唄っていただけるように、唄い手の息を受けて、柔らかな音色のうちに唄を引き立てていく呼吸を取るのが難しいのだとか。虫六的には、三味線独奏部分の合方はまぁいいのですが(独習できるという意味で)、唄に合わせるのが苦手…、二上がりへの変調もあるし、ここいらで実力アップを目指すためにも挑戦しがいがある曲です。某流派では名取試験の課題曲といわれる実力をみられる1曲、お正月から、モチベーションをあげて頑張ります!…なんちて。

ところで、この曲が作られたのが明治3年というのがちょっと気になりまして、調べてみました。
明治維新の激動は伝統芸能にとっても深刻な影響をもたらしたと言われます。旧体制下、武家社会をパトロンにしていた能楽は、存続の危機をかけた自由競争に晒されました。歌舞伎も能楽ほどではないにしても近代化を求められ、それまでの遊里趣味から脱却した表現の変革を余儀なくされます。それでも、当時庶民の中にあった歌舞伎・長唄には勢力があり、能楽は長唄とのコラボレーションをはかり三味線入りの能狂言を起こして生き残りをかけたと言われます。それに反してかえって興隆を誇ったのは人形浄瑠璃でした。義太夫節は劇場から寄席に“素浄瑠璃”として進出し、大阪市民の間にファンを拡大、お稽古事としてブームを起こしたそうです。

明治初期に活躍した長唄三味線の名人は3人。

二世杵屋勝三郎は、能役者の日吉吉左衛門と提携して、明治3年、能の『船弁慶』『安達ヶ原』を三味線入りの曲として編曲しました。これに囃子にも編曲を加えて創出されたのが「吾妻能狂言」。現在では長唄の “謡曲もの” といわれる演目の始まりといわれます。

「根津の勘五郎」と呼ばれた三代目杵屋勘五郎は、大薩摩絃太夫の名も持つ大薩摩の名手で、『橋弁慶』(明治元)、『綱館』『望月』(明治3)、などを作曲しています。

一方、三世杵屋正治郎は、長唄の曲に洋楽の影響をうけ、その手法を取り入れたことで知られます。それが顕著に認められる作品として『元禄花見踊』(明治11)があげられますが、『梅の栄』が作られた時期はまだそこまで強い影響はないみたい。
しかし、この曲が “素唄” として作られたことは注意したいところ。
それまで、歌舞伎長唄の地方演奏家が芝居や舞踊の伴奏としてではなく、演奏会のための長唄を作り出したのがこれらの作曲家。素浄瑠璃の流行も影響していたのかな。この動きが、明治後半の研精会を中心とした純粋音楽として演奏会で長唄を鑑賞するあり方に繋がって行くことになります。そう考えると、この曲などは、過激さなど微塵もない演奏家のハッピーな余技的作品とも言えますが、当時としてはアバンギャルドな側面もあったのかなー?などと妄想も膨らみ、やっぱり日本の伝統芸ってクールだわ。
正治郎は、後年歌舞伎を高尚趣味なものとして写実を追求した九代目團十郎と組んで「鏡獅子」(明治26)など多くの傑作を生み出しています。

…蘊蓄はいいのですが、要は、練習ですね…!!分かってます、はい。

【参考文献】
「長唄名曲要説」 浅川玉兎著 日本音楽社
「日本音楽の歴史」吉川英史著 創元社
「明治演劇史」 渡辺保著 講談社
三味線文化譜「長唄 梅の栄」邦楽社
「長唄の世界へようこそ」細谷朋子 春風社 →こちらも
Wikipedia 

*三代目杵屋正治(次)郎は、文献によって名前の漢字が違っていますが、1855年に三代目正次郎を襲名し、1878年より正治郎と表記しているとのこと。この曲を作った頃は正次郎を名乗っていたということになります。

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